10/28 treeberrys 再結成 at シェルターに向けて
�@えーとどっから話しましょうか。(1997)
まず結成当初からか。僕は法政大学のロック研究会というところに所属していて、
イナガキ君はそこの幽霊部員だった。
たまに教室の外の休み場とかで会う際、音楽の話になり、趣味がわりとちかいかんじを受けた。
それでカセットテープをあげたりしたような気がする。
(それはホリーズとか僕ごのみのテープだったと思う。)
そんで僕の宅録音源(アマチュアアワー)を彼が気にいってくれたり、
偶然部室で出会って彼の新曲の演奏をてつだったりして、
なんかバンドをやる感じになったのだと思う。
最初はホントにお手伝い的なノリで、まあベース上手くなりたいしいいか!とおもっていた。
スタジオで初期にみんなであわせたのはホリーズのイエスアイウィルとフーのピクチャーズオブリリー。
イエスアイウィルは実は2バージョンあって、僕とイナガキ君の聴いてるバージョンがたまたま違い、
構成でずっこけたり、ほほえましいことがあった。
そんでなんでだかわすれたが、わたくんもうたってほしいみたいな感じになり、
この際大好きなブリティッシュビートオンリーの曲調でいっちょ書こう!との思いがあり、
これでもかとビートものの語彙を組み込んだ。それがこのアルバム。
そのころには英モノラルシングルの衝撃がでかく、ほかの音は認めなくなるほどこの手のサウンドを愛してた。
ってんで4トラック同録のこの時代を無視したサウンドになったんだっけか。
(そのまえにカセットデモもくばってたんだが、これもほぼ方向は同じ)
たぶん1998年にはできていたんだが、イナガキ君がいそがしくなり、思うようにライブなどもできなくなり、
どうなることやらとおもっていたが、彼のバイトしていたバーンホームズに拾われ1999年にリリースされたときは
うれしかった。(タワーで試聴機なんかにはいっていた)
が、、、なんか違う音楽欲が自分の中でうずうずしてきたわけです。
�Aメンバーチェンジ(1999)
ぼくらの1stの頃のドラマーはいわせさんという女性で早稲田のジェック?のひとでイナガキ君のモアファンの
後期メンバーだった。
最初はまあ不満もないっていうか外様メンバーだったんでふつうにあわせていたんだけど、
曲によっては「そうじゃないんだよなー」と感じることもしばしばあり。
今思えば彼女には力技でない良さもあるんだけれど、もっとロックしたかったというか。
そんでこのコンピの
レコーディングをきいて、「たたけてない、アカン」
ということになり、あるライブ後に「もうこなくていいよ」
と私が告げたような気がする。
ひ・ど・い
�B榊原君登場(1999)
いや、彼は法政のダンスミュージック研究会にいて、ロック研究会の僕の親友、ニワ君とも
バンドをくんでいたので、しっていた。というかそのタッセルズというバンドはブリティッシュビートの
モッズっぽい部分だけをやる感じのいかしたバンドで、僕もデモテープの録音を手伝うくらい好きだった。
ベースもヘルプでひいたこともある。
ってんで、イナにも相談すると、彼、榊原君しかいないということになり、さそってみた。
最初は彼のほうで、まあスタジオはいってからだな。というノリだったんだが、
いっしょにあわすと「チュドドーン」と扉が開いた感じがした。
セッション中笑顔しかでない状態。
とにかくこれで俺のバンドが完成する!ともりあがったわけです。
(そういやその前に榊原くんからなぜか「1stCDよかったよ!」という連絡が僕の家にあったな。
わざわざ電話をくれたのは今思えば縁を感じる。)
そしてその頃のノリノリな状態が記録されてるのが次の2枚のシングル。
まだモノラルにこだわっていた!!!!(笑)
�Cつらいレコーディング(2001)
そのころ、シンバルスとかゴメスザヒットメン、クラムボンなんかのPVをテレビでみて、
いい曲かくやつ日本にもいるじゃん。やばいな!とおもったんだとおもうが、
「こんなモノラルばっかじゃなくて、すこしちゃんとした音でとりたい」と
8trのハードディスク録音機を入手。
これがまずかったというか、同録をやめていくわけです。
ドラム→ベース→ギターの順で録ってったんだが、単体で聴くと
稲垣くんのギターに納得いかないわけです。
そんでもまあある程度ギターをとったのを榊原君に聴かせた時、
あきらかに表情がくもって、「これだけかかってこれかよ!」みたいな雰囲気がありました。
そこで、どうやって稲垣君に許可を得たかわすれたが、ほぼすべてのリズムギターを
私が録りなおしました。
これも今思えば
ヒ・ド・イ
外様奉行なのに、ドラムとギターを首にしてしまったのです(レコード上だけですけど)
ボーカルのピッチにも互いに文句をつけまくり、かなり殺伐としたレコーディングでした。
ジャストリトルビットクローサーという楽しい曲の「ナナヘヘイ!」を百回くらい稲垣くんに
うたわせたのは今思えば
本当にすまんかった!!(笑)
そしてこのアルバム、私は完璧だとおもってたのですが、以前のファンの評価は低く、
僕はバカじゃねえ?とおもったものでした。
今きくと、ぬるいところ、いわゆる感情移入できるすきまをことごとく捨ててるのがいけないのだと
わかります。でもしつこいですが僕は大好き(笑)
�Dふたたびの上昇気流(2002)
1998ころから稲垣君はロックボトムというバンドもやっていたので、なにかがふっきれたのでしょう。
ギタープレイも良くなってきました。サードは俺がひく!という自信ある発言があったように思います。
(あたりまえのバンドであればあたりまえなことに注目(笑))
ここでも基本別どりで録音しましたが、稲垣君のギターを聴いたとき、感動しましたね。
とってもアイデアがあってよくて。
そんで早い曲はイナガキ君のうちでベースと同録しよう!ということになり、
ソファでふたりでノリノリでひきました。稲垣君は最後の曲のラストでヘッドフォンがはずれたような記憶が
あります。でもプレイバックをきいてふたりとも爆笑。右から左へパンニングするようなかっこいいラストがとれたのです。
このアルバムでは速いのだけでなく、マイガールとかリメンバーザデイなどのリリカルものもちゃんとできたのが
いいですね。
だけどこのアルバムができて、まあやりたかったものができてしまったと、僕も稲垣君も感じていたと思います。
売れませんでしたが、このアルバムの曲のかけてる度はちょっとすごい。誇りに思います。
�E再度メンバーチェンジ
こうして思うと、一枚たりとも同じメンバーで演奏していない、ひどいバンドな気がするが、
まあさておき、千葉の増尾駅近くのバーミヤンでなぜか稲垣君からこんな提案をうけた。
「もうこのメンツでやれることはやったから、わたくんはギターが上手いんだから、ギターひいて、
ベースにだれか入れるべき、そうだ、君の弟をいれればよい。」
まあ、どうせこのままでも終わるような気がしてたんでやってみっかと、弟のベースを猛特訓。
僕が提案するある練習法があるのですが、「指がいてえ」とか涙目になってたパンク。
そんでまあおもしろいからということでライブも何本かやるわけです。
そんでなんで弟をクビにしたかをわすれましたが、きにいらなかったのかもしれません。
ライブ音源があればきいてみたいですね。
�Fそんで再度メンバーチェンジ
なんでだか忘れましたが、ライブによくきてくれてたサドルズの遠藤君にむりやりベースを弾いてもらおう
という話になり、たしか「このバンドでモテモテになってあとで好きな感じのバンドでがんばれ!」
みたいな甘い誘いをしたように思う。
そして、はじめて遠藤君をいれてセッションしたときも、
「チュドーンドーン」とかなりいい感じに仕上がった。
もうそこで「わかってるよね?」って感じでバンドに入れてしまったのだと思う。
これも拉致にちかい気がする。
ヒ・ド・イ
�Gわたくんまた発症
そのうち、自分でえらんだメンバーにもかかわらず、
ドラム、ベースに納得がいかなくなってきてしまいました。
そこで僕はデモテープをつくって、聴いてもらえば俺の言うことがわかるはず!と
全部自分でドラムなどもとったデモをつくりました。
メンバーはすこしわかってくれたようでした。
このころからキックとベースをシンクロする、下手でも聴けるアンサンブルを多用するようになりました。
またアルバム制作の初期でデキシードザエモンズの音に感動した私が、スタジオサンでとりたい!
同録で!と騒ぎ、オケだけ軽くとったことがあります。
プレイバックを聴いてみて、まるで納得できなかった私はそれを捨てました。
そしてまたHD宅録路線にもどるのです。
ひ・ど・い
�Hやる気があればなんでもできる(2006年)
こうして書いてみると、自分の業の深さにあきれますね(笑)
この4人になって、なぜかライブの動員は増えました。これは不思議です。
ライブが楽しい、もりあがるのでかなりライブばっかをしてました。
できた4枚目は稲垣君の曲のクオリティがさがっているような感じで、あまり好きではありませんでした。
だけどつまんない曲もギターでもりあげようとがんばったつもりです。
ほんとに聴くとさびしいんだよな。このレコード。
例によって曲によっては私がベースもひいています。
あんまりよくはならなかったけどな!
�I解散
そんな中、俺ら下手なんだから、コードもすくなくして、ロックンロールリバイバルっぽいの
もう一枚だけつくりたいな〜〜との思いが僕の中でつもりました。
ライブでやってたフレックスハーレザー、テレフォンナンバーとかの路線です。
こういった曲は簡単だし、もりあがるし、いいことづくめです。
だけどある日遠藤君と稲垣君からダブルで脱退の話を聞いてしましました。
なんだかあほらしかったです。
おまえらを輝かせようとがんばってたのに!!!と思いました。
ぼくはヘラヘラしながらおこり、榊原君は真剣におこっていました。
でもまあ、これアルバムでる前だったんで、何本かのライブはやろう。と
こういうことになりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここまで来ると、一瞬でも再結成することの意味がわかりません(笑)が、
まあ、だれも悪くないわけです。
こうして文字にすると僕が悪いような気もしてきた、、、(笑)
いや、でも音楽に嘘はついていないし、しょうがない!
そしてなにより残された曲はとびきりだし、罪はない、
ましてファンは最高だ。
そして今回はお世話になったKOGAレコーズさんへ「すんませんでした!おめでとうございます!」ってのもあるし、
榊原君のドラムともひさしぶりにあわせたいなー!なんて思いノコノコするわけです!!!
<SHELTER20周年とNUDGE'EM ALL「SEE」発売を祝う"KOGA RECORDS NIGHT 2011">
2011/10/28(金)
OPEN 18:30 / START 19:00
ADV.¥2,300/ DOOR ¥2,800
NUDGE'EM ALL
CLANDESTINE
Treeberrys
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まず結成当初からか。僕は法政大学のロック研究会というところに所属していて、
イナガキ君はそこの幽霊部員だった。
たまに教室の外の休み場とかで会う際、音楽の話になり、趣味がわりとちかいかんじを受けた。
それでカセットテープをあげたりしたような気がする。
(それはホリーズとか僕ごのみのテープだったと思う。)
そんで僕の宅録音源(アマチュアアワー)を彼が気にいってくれたり、
偶然部室で出会って彼の新曲の演奏をてつだったりして、
なんかバンドをやる感じになったのだと思う。
最初はホントにお手伝い的なノリで、まあベース上手くなりたいしいいか!とおもっていた。
スタジオで初期にみんなであわせたのはホリーズのイエスアイウィルとフーのピクチャーズオブリリー。
イエスアイウィルは実は2バージョンあって、僕とイナガキ君の聴いてるバージョンがたまたま違い、
構成でずっこけたり、ほほえましいことがあった。
そんでなんでだかわすれたが、わたくんもうたってほしいみたいな感じになり、
この際大好きなブリティッシュビートオンリーの曲調でいっちょ書こう!との思いがあり、
これでもかとビートものの語彙を組み込んだ。それがこのアルバム。
そのころには英モノラルシングルの衝撃がでかく、ほかの音は認めなくなるほどこの手のサウンドを愛してた。
ってんで4トラック同録のこの時代を無視したサウンドになったんだっけか。
(そのまえにカセットデモもくばってたんだが、これもほぼ方向は同じ)
たぶん1998年にはできていたんだが、イナガキ君がいそがしくなり、思うようにライブなどもできなくなり、
どうなることやらとおもっていたが、彼のバイトしていたバーンホームズに拾われ1999年にリリースされたときは
うれしかった。(タワーで試聴機なんかにはいっていた)
が、、、なんか違う音楽欲が自分の中でうずうずしてきたわけです。
�Aメンバーチェンジ(1999)
ぼくらの1stの頃のドラマーはいわせさんという女性で早稲田のジェック?のひとでイナガキ君のモアファンの
後期メンバーだった。
最初はまあ不満もないっていうか外様メンバーだったんでふつうにあわせていたんだけど、
曲によっては「そうじゃないんだよなー」と感じることもしばしばあり。
今思えば彼女には力技でない良さもあるんだけれど、もっとロックしたかったというか。
そんでこのコンピの
レコーディングをきいて、「たたけてない、アカン」
ということになり、あるライブ後に「もうこなくていいよ」
と私が告げたような気がする。
ひ・ど・い
�B榊原君登場(1999)
いや、彼は法政のダンスミュージック研究会にいて、ロック研究会の僕の親友、ニワ君とも
バンドをくんでいたので、しっていた。というかそのタッセルズというバンドはブリティッシュビートの
モッズっぽい部分だけをやる感じのいかしたバンドで、僕もデモテープの録音を手伝うくらい好きだった。
ベースもヘルプでひいたこともある。
ってんで、イナにも相談すると、彼、榊原君しかいないということになり、さそってみた。
最初は彼のほうで、まあスタジオはいってからだな。というノリだったんだが、
いっしょにあわすと「チュドドーン」と扉が開いた感じがした。
セッション中笑顔しかでない状態。
とにかくこれで俺のバンドが完成する!ともりあがったわけです。
(そういやその前に榊原くんからなぜか「1stCDよかったよ!」という連絡が僕の家にあったな。
わざわざ電話をくれたのは今思えば縁を感じる。)
そしてその頃のノリノリな状態が記録されてるのが次の2枚のシングル。
まだモノラルにこだわっていた!!!!(笑)
�Cつらいレコーディング(2001)
そのころ、シンバルスとかゴメスザヒットメン、クラムボンなんかのPVをテレビでみて、
いい曲かくやつ日本にもいるじゃん。やばいな!とおもったんだとおもうが、
「こんなモノラルばっかじゃなくて、すこしちゃんとした音でとりたい」と
8trのハードディスク録音機を入手。
これがまずかったというか、同録をやめていくわけです。
ドラム→ベース→ギターの順で録ってったんだが、単体で聴くと
稲垣くんのギターに納得いかないわけです。
そんでもまあある程度ギターをとったのを榊原君に聴かせた時、
あきらかに表情がくもって、「これだけかかってこれかよ!」みたいな雰囲気がありました。
そこで、どうやって稲垣君に許可を得たかわすれたが、ほぼすべてのリズムギターを
私が録りなおしました。
これも今思えば
ヒ・ド・イ
外様奉行なのに、ドラムとギターを首にしてしまったのです(レコード上だけですけど)
ボーカルのピッチにも互いに文句をつけまくり、かなり殺伐としたレコーディングでした。
ジャストリトルビットクローサーという楽しい曲の「ナナヘヘイ!」を百回くらい稲垣くんに
うたわせたのは今思えば
本当にすまんかった!!(笑)
そしてこのアルバム、私は完璧だとおもってたのですが、以前のファンの評価は低く、
僕はバカじゃねえ?とおもったものでした。
今きくと、ぬるいところ、いわゆる感情移入できるすきまをことごとく捨ててるのがいけないのだと
わかります。でもしつこいですが僕は大好き(笑)
�Dふたたびの上昇気流(2002)
1998ころから稲垣君はロックボトムというバンドもやっていたので、なにかがふっきれたのでしょう。
ギタープレイも良くなってきました。サードは俺がひく!という自信ある発言があったように思います。
(あたりまえのバンドであればあたりまえなことに注目(笑))
ここでも基本別どりで録音しましたが、稲垣君のギターを聴いたとき、感動しましたね。
とってもアイデアがあってよくて。
そんで早い曲はイナガキ君のうちでベースと同録しよう!ということになり、
ソファでふたりでノリノリでひきました。稲垣君は最後の曲のラストでヘッドフォンがはずれたような記憶が
あります。でもプレイバックをきいてふたりとも爆笑。右から左へパンニングするようなかっこいいラストがとれたのです。
このアルバムでは速いのだけでなく、マイガールとかリメンバーザデイなどのリリカルものもちゃんとできたのが
いいですね。
だけどこのアルバムができて、まあやりたかったものができてしまったと、僕も稲垣君も感じていたと思います。
売れませんでしたが、このアルバムの曲のかけてる度はちょっとすごい。誇りに思います。
�E再度メンバーチェンジ
こうして思うと、一枚たりとも同じメンバーで演奏していない、ひどいバンドな気がするが、
まあさておき、千葉の増尾駅近くのバーミヤンでなぜか稲垣君からこんな提案をうけた。
「もうこのメンツでやれることはやったから、わたくんはギターが上手いんだから、ギターひいて、
ベースにだれか入れるべき、そうだ、君の弟をいれればよい。」
まあ、どうせこのままでも終わるような気がしてたんでやってみっかと、弟のベースを猛特訓。
僕が提案するある練習法があるのですが、「指がいてえ」とか涙目になってたパンク。
そんでまあおもしろいからということでライブも何本かやるわけです。
そんでなんで弟をクビにしたかをわすれましたが、きにいらなかったのかもしれません。
ライブ音源があればきいてみたいですね。
�Fそんで再度メンバーチェンジ
なんでだか忘れましたが、ライブによくきてくれてたサドルズの遠藤君にむりやりベースを弾いてもらおう
という話になり、たしか「このバンドでモテモテになってあとで好きな感じのバンドでがんばれ!」
みたいな甘い誘いをしたように思う。
そして、はじめて遠藤君をいれてセッションしたときも、
「チュドーンドーン」とかなりいい感じに仕上がった。
もうそこで「わかってるよね?」って感じでバンドに入れてしまったのだと思う。
これも拉致にちかい気がする。
ヒ・ド・イ
�Gわたくんまた発症
そのうち、自分でえらんだメンバーにもかかわらず、
ドラム、ベースに納得がいかなくなってきてしまいました。
そこで僕はデモテープをつくって、聴いてもらえば俺の言うことがわかるはず!と
全部自分でドラムなどもとったデモをつくりました。
メンバーはすこしわかってくれたようでした。
このころからキックとベースをシンクロする、下手でも聴けるアンサンブルを多用するようになりました。
またアルバム制作の初期でデキシードザエモンズの音に感動した私が、スタジオサンでとりたい!
同録で!と騒ぎ、オケだけ軽くとったことがあります。
プレイバックを聴いてみて、まるで納得できなかった私はそれを捨てました。
そしてまたHD宅録路線にもどるのです。
ひ・ど・い
�Hやる気があればなんでもできる(2006年)
こうして書いてみると、自分の業の深さにあきれますね(笑)
この4人になって、なぜかライブの動員は増えました。これは不思議です。
ライブが楽しい、もりあがるのでかなりライブばっかをしてました。
できた4枚目は稲垣君の曲のクオリティがさがっているような感じで、あまり好きではありませんでした。
だけどつまんない曲もギターでもりあげようとがんばったつもりです。
ほんとに聴くとさびしいんだよな。このレコード。
例によって曲によっては私がベースもひいています。
あんまりよくはならなかったけどな!
�I解散
そんな中、俺ら下手なんだから、コードもすくなくして、ロックンロールリバイバルっぽいの
もう一枚だけつくりたいな〜〜との思いが僕の中でつもりました。
ライブでやってたフレックスハーレザー、テレフォンナンバーとかの路線です。
こういった曲は簡単だし、もりあがるし、いいことづくめです。
だけどある日遠藤君と稲垣君からダブルで脱退の話を聞いてしましました。
なんだかあほらしかったです。
おまえらを輝かせようとがんばってたのに!!!と思いました。
ぼくはヘラヘラしながらおこり、榊原君は真剣におこっていました。
でもまあ、これアルバムでる前だったんで、何本かのライブはやろう。と
こういうことになりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここまで来ると、一瞬でも再結成することの意味がわかりません(笑)が、
まあ、だれも悪くないわけです。
こうして文字にすると僕が悪いような気もしてきた、、、(笑)
いや、でも音楽に嘘はついていないし、しょうがない!
そしてなにより残された曲はとびきりだし、罪はない、
ましてファンは最高だ。
そして今回はお世話になったKOGAレコーズさんへ「すんませんでした!おめでとうございます!」ってのもあるし、
榊原君のドラムともひさしぶりにあわせたいなー!なんて思いノコノコするわけです!!!
<SHELTER20周年とNUDGE'EM ALL「SEE」発売を祝う"KOGA RECORDS NIGHT 2011">
2011/10/28(金)
OPEN 18:30 / START 19:00
ADV.¥2,300/ DOOR ¥2,800
NUDGE'EM ALL
CLANDESTINE
Treeberrys
and more